電車を待つ人の列。笛を吹き手を振る駅員。くどいぐらいのアナウンス。いつも通りの朝の駅の風景だった。
無駄話の尽きぬ女子学生。漫画雑誌を読む青年。携帯電話に向かって不必要に声を張り上げる中年男性。いつも通りの朝の駅の人々の姿だ。
いつも通りの…。って、え?
いつも通りではない、明らかに非日常的な光景が私の目に飛び込んできた。くたびれたスーツ姿の男。それはまあ普通だ。男は耳に押し当てた物に向かって時に喋り、時に頷いていた。それもまあ見慣れた光景だ。
だがしかし、その耳に押し当てている物が問題だった。
どう見ても革靴。
この異様な光景に他の人間も気付いているのか?周囲を見回すが、誰も気付いている様子はない。いや、時折男に目を留める者もいるにはいるが、皆また何事も無かった様に日常の風景の中に戻る。
俺が知らないだけで、今世間では革靴型の携帯が一般的なのだろうか。
そう考えてから、ふとある事を思い出し、俺は苦笑した。
そういえば、数年前携帯電話に繋いで使う、バナナ型の受話器や黒電話型の受話器といったジョーク商品が話題になっていたっけか。しかしまた革靴型とは。随分と奇抜なジョークもあったものだ。
そう思いながら再び男の耳元の革靴に目をやる。
そうそう、革靴の下のほうから携帯に繋がるコードが、…って、ない。
男の手に握られた革靴は、本来の革靴がそうあるように、どこにもコードなどなかった。
…最近は無線タイプの物があるのだろうか。
しかしそれにしてもその質感。それはどうみても軽い合成樹脂で出来ているようには見えず、随分履きこまれた革靴らしい、くたびれた牛革の質感を放っていた。そしてあまつさえ、ご丁寧に、靴底までリアルに幾分か磨り減っている。
俺はおそるおそる目線を下へと移動させた。くたびれたスーツに包まれた胸、腹、脚。そして、くたびれた革靴に包まれた右足と、紺色の薄手のナイロン靴下にだけ包まれた、左足。
やっぱり本物の革靴か!
はっ、と目を上げると、革靴を握ったその男と目が合った。
男は、にやり、と口の端を吊り上げると、ホームに到着した電車に飲み込まれていった。
自分の乗るべき電車を待つ間も、電車に乗っている間も、会社についてからも、あの革靴の事が気になって仕方がない。頭から離れない。
あの靴は何だったのだろう。あの男は何をしていたのだろう。
気になって、気になって、気になって、ついに俺は意を決した。
すなわち、同じ行動を取ってみれば何かわかるかもしれない、と。
椅子に腰掛けたまま上体を折り、片方の靴を足からもぎ取る。そして、手にしたそれをおもむろに顔の高さまで運び、耳元に押し当てる。
「………もしもし?」
当然のように、返事はない。
しかしそこで諦めてしまっては何もわからないままだ。俺は、めげずに自然な調子で話し続けた。
「ああ、その件につきましては担当の者が……」
「ええ、ですから先程申し上げましたように……」
時に饒舌に語り、時に頷きつつ相槌を入れ。駅で見た男がやっていたように振舞い続けた。周りの者は、ちらりと俺を見ても皆一様に瞬時に目を逸らし、何事も無かったかのように作業に戻る。
その時、誰かの息を飲む音が聞こえた。
その方向を見遣ると、今年入社したばかりの青年が、靴を履いていないほうの俺の足に視線を釘付けて、驚愕の表情を浮かべていた。その後、目を見開いたまま顔を上げた彼の視線と俺の視線が、しっかりと絡み合う。彼は、俺から目を逸らす事もできずに唾をごくりと飲み下す。
きっと、彼はこの革靴携帯が気になって気になって、後で試してみるに違いない。
そう考えると俺は、口の端がにやりと吊り上るのを抑え切れなかった。