結婚してもう随分になる。
長年の共同生活で互いの性格を飲み込んだ者同士が味わえる、穏やかで静かな毎日。互いの間には何の秘密も無く、平穏で幸せな日々。何一つ不満など無かった。
しかし近頃、妻の様子がおかしい。
いつも穏やかな微笑を絶やす事の無かった彼女が、最近ではいつも浮かない顔をしている。いつも私に向けられていた優しい眼差しは、今では憂いを湛え窓の外ばかりに向けられている。そうして深く溜息を繰り返す彼女に、ついに私はどうしたのかと尋ねてみた。
彼女はそれには答えずに、悲しげな目で私を見て、ただ一言、
「私の部屋のタンスを決して開けて中を見ないでくださいね」
とだけ言った。
妻の部屋には、彼女が嫁入り道具の一つとして持参した、古いタンスがある。「レトロ」という言葉がぴったりの、アンティーク調の立派な物だ。彼女がこの家に来た時からあるというのに、「開けるな」と言われたのはこれが初めてだ。私が無断で妻の持ち物に触れることなどないということは、誰よりも彼女がよく知っているだろうに、何故今更、改めて、そのタンスに限って開けるななどと言うのだろう。
そのタンスの中に、妻の様子がおかしくなった原因があるに違いない。そう考えるのが自然な流れであろう。
妻の願いに背くことは心が痛んだけれど、妻が浮かない顔をする原因がそこにあるとわかっていて見て見ぬふりをする方が、もっと心が痛む。私は妻の留守中にタンスを開ける事を決意した。
妻が買い物に行くのを待って私は行動に移った。
妻の部屋に入り、一際存在感を放つどっしりとしたそのタンスの前に立つ。一段目の取っ手に指を掛け、ごくりと唾を飲み下すと、私はゆっくりと引き出しを引いた。
その引き出しには、新婚当初の思い出が入っていた。それまで育った環境の違いから、些細な事で言い争う私と妻。子供じみた独占欲で、何でもないことにお互い嫉妬して言い争う私と妻。何度も喧嘩をしながら、その度にお互い泣きながら仲直りをして、歩み寄っていた。
なんだか照れくさくなって、私はその引き出しを閉じた。
次に2段目の引き出しを開ける。
その引き出しには、結婚間際の思い出が入っていた。二人の結婚に反対する妻の父親。泣きながら父親を説得する若かりし日の彼女。父親に怒鳴られても、殴られても、頭を下げ続けその場を動かない若かりし日の自分。
なんだか胸が熱くなって、私はその引き出しを閉じた。
最後に3段目の引き出しを開ける。
その引き出しには、出会ったばかりの頃の思い出が入っていた。二人とも、互いに自分をよく見せようと格好をつけることに必死で、とてもぎこちなく見えた。そうして、聞いているほうが恥ずかしくなるような愛の言葉をひっきりなしに囁きあっていた。
懐かしくて、眩しくて、私は黙って最後の引き出しを閉じた。
全ての引き出しの中を見て、全ての引き出しを閉じた今、何故だか今の生活が急に色褪せて見えた。私は物憂い眼差しで窓の外を見遣り、深く溜息をついた。