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30のお題
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JET戦兵―モノカキさんに30のお題-10




2004/08/24(火)
   ドクター

彼が彼女に対してとるべき他の道があったように、私も彼に対してとるべき他の道があったんじゃないだろうか。
答えはいつも一つではなく複数あるくせに、複数あるということに気づくのはいつも事が済んでしまってからなのだ。そうして大抵の場合、後から見た答えの方がより正解らしく目に映る。

◆◆◆

「あの病気は治らないような病気じゃなかった!」

ドアを跳ね飛ばす勢いで部屋に入るなりそう言った私に、ファイルから目を上げることなく彼は抑揚のない声で「そうだね」とだけ言った。
「わかっていたなら……あなたは彼女を見殺しにしたというのか」
彼は漸く僅かに目を上げ、それでもこちらを振り向くことなく並んだバインダーや本などの背に隠れて見えない筈の机と壁の境界辺りに視線を置いた。
「……彼女には、助かろうとする意志が無かった」
その言葉の意味を量りかね、続く言葉があるのかと待ってしまったため一瞬の沈黙が場に降りた。
彼は言葉を継ぐ様子もない。
助かろうとする意志がなかった、とはどういうことか。助かりたくないなら病院になど誰も来やしない。そもそも助かる意志の有る無しなど他人に判断できることなのか。ましてや医師が、患者のそれを勝手に判断しあまつさえそれによって治療の在り方を変えるなど許されることなのか。
「助かろうとする意志が有ろうと無かろうと、治療を必要とする者を救うのが医師の務めではないのか……!」
「ねえ君、助かる意志のない者を助けることなど、誰にも出来ないのだよ」
そう言って彼は漸く私に目を向けた。疲れた色をしている。それ以外は何も読み取れない。

「例えば酷くのどの乾いた馬がいる。牧夫にはその馬を水飲み場に引っ張って行ってやることはできても、無理に水を飲ませることなど出来ない。水を飲むか否かを決めるのは馬自身なのだ」
「それは違う。患者は馬ではないし、ましてやあなたは牧夫ではなく医師なのだ。水分が必要であれば点滴なり何なりで施すことが出来るだろう」
「もしその馬が渇きにより死ぬことを望んでいたら? その場は水分を無理に補給させたとしても、その後また馬は水を飲まず何度でも同じ事態は起こるだろう。その度に点滴を打つか? そうまでして生かす意味がどこにある? そうまでして生かされることが本人の幸せか?」
「あなたは、彼女が死にたがっていたと言うのか? 死にたい者が医者に掛かったりするものか。それに必死に看病をしていた彼女の夫の気持ちはどうなるんだ!」
「確かに彼女は直截的に死にたいと思っていたわけではないかもしれない。だがね、病気を治すために医者に掛かっていたわけでもないんだよ」

病気を治すため以外に医者に掛かるどんな理由があるというのか。彼の言葉の意味を理解しかね、私は言葉を返さず彼を見つめた。相変わらず疲労の色しか映さない瞳が私を通り越し中空を凝視する。

「病に倒れた時に彼女は気付いたんだ。病気でいれば、今まで仕事で自分を省みることの無かった夫が自分だけを見てくれるということに。だから彼女は病気でい続けなければならなかった。彼女にとって医者は病気である自分を演出するための道具立てに過ぎない。彼女にとって必要なのは希望的な診断報告ではなく病状悪化の報告。治る見込みについていくら話しても気休めだとしか受け取らない。精神が肉体に与える影響が馬鹿に出来ないことは君も知っているだろう。彼女は望み通り衰弱の一途を辿り、彼女の夫は彼女に掛かりっきりとなった」
「そんなことのためにあなたは彼女を見殺しにしたというのか? 彼女はそれで満足だとしても、彼女の夫はどうなるんだ!」
「私も最初は全力を尽くしたさ。そうして持ち直しかけても、彼女の思いはまたすぐに病状を悪化させてしまう。その繰り返しだ。彼女の夫がいくら熱心に看病をしても、いや、熱心に看病をすればするほど、彼女の病は治るわけにはいかなくなる。治ってしまえばまた彼が仕事に打ち込む日々が戻るだけだからね。だから、彼もまたこうなることを望んでいたのだ」
「そんな……彼は看病から開放されたくて彼女の死を望んでいたというのか……?」
「そうじゃない。彼は、彼女を愛していたからこそ彼女の死を望んだのだよ。終わることを許されない彼女の病苦を終わらせて、夫が自分だけを見ているという幸せのうちに彼女の人生を終えさせてやる為に。だからこそ彼はあれほどまでに献身的に看病をしたんじゃないか」

患者も、その夫も、病が癒えることを望んではいなかった……? その中で彼は一人病を癒すべく奮闘し、しかし回復の兆しが見える度に二人の思いが状況を振り出しに戻してしまう。終わりも救いもない。これはまるで……まるで賽の河原の石積みではないか。

「私には彼女を治療することなど求められてはいなかった。否、むしろ死に導くことこそが私に求められた役割であり彼女らの幸せだったのだよ」

違う。何かが違う。彼女らがそれで満足だとしても、どこかがしっくりとこない。

「……それでは、あなたの意志は?」

私のぽつりと落とした言葉の意味を問うように、彼の虚ろな瞳が私に向けられた。
「それは、彼女たち夫婦のシナリオだ。しかしあなたのシナリオではない。何もあなたがそのシナリオに付き合う必要はなかったんじゃないのか」
私を見つめる瞳の疲労の色が一層濃くなる。
「君はいったい私の話の何を聞いていたのだ? いくら治療を施しても、それは彼女たちの苦しみを長引かせることにしかならないのだぞ?」
確かにそうなのだ。だがしっくりこない。何か。何か他の答えがなければいけない。
「そう……彼女たちが治療を受け入れないのはあなたの管轄ではなく精神面の問題だ。ならばあなたは、二人にカウンセリングを受けさせるなりして治療を受け入れられる状態にすることもできたのではないのか? あなたが彼女たちのシナリオに巻き込まれる必要性などどこにもなかったんだ」

私を見つめる目が僅かばかり見開かれた。

「……ああ。なんだ。そうすれば良かったのか」

『ああ。なんだ』? 患者を見殺しにしておいて、『そうすれば良かったのか』?
目の前の男の瞳は、先ほどまでの疲れきった色を捨て、夢から覚めたような晴れやかな色さえしていた。

「あなたは……死ななくてもよい人間を死に追いやったのだ。あなたのしたことは人殺しも同然だ」

「少し疲れた。今日はもう帰るよ」
晴れやかな瞳のまま頼りなく微笑み、人の話を聞いているのか聞いていないのかよく分からない返事を残して彼は部屋を後にした。
「聞いているのかっ! あなたは自分が何をしたのか分かっているのか!?」
私は閉ざされた扉に言葉を投げつけた。


彼が自宅マンションのベランダから転落死したという知らせを聞いたのは次の日の朝早くだった。
私にも、彼を責め立てる以外の、何か他の答えが。