彼女ができました。
随分長い道のりでした。
何度口説いても首を縦に振らない彼女。
でもやっと頷いてくれたのです。
一緒に棲むことになりました。
マンションの3階の僕の部屋。
二人で棲むにはちょっと狭いけど、気にしない。
彼女は料理をしません。
正確に言うと包丁を握りません。
彼女が言うには、包丁が怖いのだそうです。
包丁をじっと見つめていると、これを自分や他人の体に刺してしまったら大変だ、と思う余り、いつかふらふらと刺してしまいそうで怖いのだそうです。
彼女はお裁縫をしません。
正確に言うと針を手にしません。
それどころか見るのも嫌なんだそうです。
尖った針の先を見ていると、これが目に刺さったら大変、と思う余り、いつかふらふらと突き刺してしまいそうで怖いのだそうです。
彼女は洗濯をしません。
正確に言うと、洗濯物を干しません。
ベランダに出るのが嫌なんだそうです。
ベランダから下を見下ろしていると、落ちちゃいけない、この柵を越えちゃいけない、と思う余り、いつかふらふらと柵を乗り越えて飛び出してしまいそうで怖いのだそうです。
彼女が出て行きました。
僕のことが嫌いになったわけではないそうです。
ただ、好きだから冗談でも「別れよう」なんて言っちゃいけない、と思う余り、ふらふらと別れてみたくなったそうです。
こうなるのが怖かったから付き合いたくなかった、とも言いました。
彼女は今でもどこかで、刃物や針や高いところを避けながら、一人で生きているのでしょうか。
それとも家事が嫌いで僕を嫌いになっただけなのでしょうか。
今となっては確かめる術はありません。
私は刃物が怖い。
じっと見ていると自分や他人をふらりと傷付けてしまいそうで。
でも、料理が出来ないほどじゃない。
私は針が怖い。
じっと見ていると迫ってきて私の目を貫いてしまいそうで。
でも、裁縫が出来ないほどじゃない。
私はベランダが怖い。
柵越しに下を見ていると、吸い込まれるように飛び降りてしまいそうで。
でも、洗濯物を干しに出られないほどじゃない。
だけど家事は全部彼がやってくれる。
愚痴一つ言わないで。
今日、ふらりと口をついて「別れよう」という言葉が出た。
ほんとに、ふらりと。
彼は悲しそうに、困ったように微笑んだ。
さよなら。
黙って家事をしてくれるのは、まるで責められているようで。
黙って微笑まれるのは、まるでもういらないって言われているようで。
私は、私を必要としてくれる人を探しに出かけた。